梅雨前の下駄箱を開けた瞬間、なぜか人生まで少し湿って見えた日
5月18日、梅雨入り前の空気はまだ優しいふりをしています

5月18日。暦の上では初夏に入り、窓を開けると少しだけ湿った風が入ってくる季節です。まだ本格的な梅雨ではないのに、部屋の空気だけが先に「そろそろ来ますよ」と小さく知らせてくるような日があります。
朝、出勤前にパンプスを出そうとして、何気なく下駄箱を開けた瞬間でした。
ふわっと、なんとも言えないにおいがしました。
強烈ではないのです。誰かに言うほどでもありません。でも、自分だけは確実に気づいてしまうにおいです。
その瞬間、私は思いました。
「あ、私の生活、ちょっと詰まってるかもしれない」
下駄箱のにおいで人生を語るなんて、少し大げさに聞こえるかもしれません。でも30代になると、こういう小さな違和感が妙に心に刺さる日があります。
洗っていない靴。
履かなくなったサンダル。
冠婚葬祭用に買ったけれど、ほとんど出番のない黒いパンプス。
いつか履くかもと思って置いている、少し痛いヒール。
下駄箱は、ただの収納ではありませんでした。
そこには、今の私と、過去の私と、少し背伸びしていた私が、ぎゅっと詰まっていたのです。
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下駄箱の中を見ていると、不思議なくらい記憶が出てきます。
この靴は、婚活アプリで初めて会った人とのランチに履いていったもの。
このスニーカーは、仕事を辞めたいと思いながらも、なんとか駅まで歩いた日に履いていたもの。
このサンダルは、去年の夏に「今年こそちゃんと楽しむ」と思って買ったのに、結局あまり履かなかったもの。
靴は黙っています。
でも、持ち主よりも正直です。
私は下駄箱の奥から、少しつま先が剥がれたパンプスを取り出しました。捨てるほどではない。けれど、履くと必ず足が痛くなる。そういう靴です。
こういうものが、生活の中には意外と多いです。
嫌いじゃないけれど、使うと疲れるもの。
もったいないから残しているけれど、見るたびに少し気分が下がるもの。
いつか必要になると思っているけれど、その「いつか」がずっと来ていないもの。
私は靴を見ながら、ふと人間関係にも似ていると思いました。
会えば楽しいけれど、帰るとぐったりする友人。
嫌な人ではないけれど、LINEが来ると身構えてしまう相手。
もう終わった恋なのに、思い出だけが妙にきれいで、なかなか手放せない記憶。
靴箱の湿気は、ものだけではなく、気持ちにもたまるのかもしれません。
しかも厄介なのは、湿気と同じで、たまっている最中は気づきにくいことです。
カビのように目に見えてから、やっと「あれ?」と思います。においがしてから、やっと「あ、放っておきすぎた」と気づきます。
心も同じです。
我慢しているときは、自分では案外わかりません。
頑張れていると思っているうちは、まだ大丈夫だと思ってしまいます。
でも、朝の下駄箱みたいに、ある日突然ふわっと違和感が立ちのぼるのです。
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私はその日、予定より少し早く起きていたので、思い切って下駄箱の中身を全部出してみました。
玄関に靴を並べると、ちょっとした展示会のようでした。
「私、こんなに持っていたんだ」
そうつぶやいたあと、なぜか少し恥ずかしくなりました。
きれいに暮らしているつもりでした。
ちゃんと働いて、最低限の家事をして、人に会うときはそれなりに整えて、30代の大人としてどうにか毎日を回しているつもりでした。
でも下駄箱の中は、私の“見えない部分”そのものでした。
外からは見えないから後回し。
人に見せないから適当。
今日困らないから、そのまま。
そうやって放置してきたものが、ちゃんと湿気を吸って、ちゃんとにおいを持って、ちゃんと存在感を出していました。
私は古い新聞紙を敷き、靴をひとつずつ拭きました。
たったそれだけなのに、不思議と気持ちが落ち着いてきました。
「これ、もう履かないな」
「これは残したい」
「これは修理するより、ありがとうで手放そう」
靴を分ける作業は、生活の中で何を大事にしたいのかを選ぶ作業でもありました。
高かったから。
まだ使えるから。
いつか必要だから。
人から見たらちゃんとして見えるから。
そんな理由で残していたものを、ひとつずつ見直していくと、私は意外と“今の自分”を置き去りにしていたことに気づきました。
今の私は、足が痛くなる靴より、ちゃんと歩ける靴がいいです。
少し背伸びしたヒールより、疲れた日でも帰ってこられる靴がいいです。
誰かに見せるための靴より、自分の一日を支えてくれる靴がいいです。
たぶん、暮らしも同じです。
映える部屋より、帰ってきて息ができる部屋。
完璧な朝活より、寝不足の日に自分を責めない朝。
誰かに褒められる私より、自分で自分を嫌いにならない私。
下駄箱を掃除しているだけなのに、なぜか少し泣きそうになりました。
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最後に、私は一番奥にあったベージュのパンプスを手に取りました。
それは、数年前に買った靴でした。
当時の私は、今よりもっと「ちゃんとした人」に見られたかったのだと思います。仕事も恋愛も美容も、全部それなりに頑張っているように見せたかったのです。
でも、その靴はいつも痛かったです。
かかとは擦れるし、つま先はきついし、帰り道には毎回「早く脱ぎたい」と思っていました。
それなのに、なぜか捨てられませんでした。
たぶん、その靴を捨てると、あの頃の頑張りまで否定してしまう気がしたのです。
私はパンプスの中を軽く拭こうとして、ふと中敷きの下に何かが挟まっていることに気づきました。
小さく折りたたまれた紙でした。
開いてみると、そこには自分の字でこう書いてありました。
「この靴で幸せな場所に行けますように」
完全に忘れていました。
たぶん買ったばかりの頃、少し浮かれて書いたのだと思います。婚活でいい人に会えるかもしれない。新しい仕事がうまくいくかもしれない。もっと素敵な自分になれるかもしれない。
そんな期待を、私は靴の中に忍ばせていたのです。
でも、その瞬間、私は少し笑ってしまいました。
だって、その靴で行った場所は、幸せな場所ばかりではありませんでした。
気を遣いすぎた食事。
無理して笑ったデート。
帰りの電車でため息をついた夜。
足の痛みをごまかしながら歩いた駅のホーム。
それでも、紙を見つけた私は思いました。
この靴は、私を幸せな場所に連れて行けなかったのではありません。
私に「痛い靴では遠くまで歩けない」と教えてくれたのです。
それが、びっくりするほど大事な答えでした。
私はそのパンプスを捨てることにしました。
けれど、紙だけは手帳に挟みました。
幸せな場所に行くために必要なのは、きれいに見える靴ではなく、ちゃんと自分の足に合う靴です。
そして人生も、たぶん同じです。
誰かに素敵だと思われる選択より、自分が息をしやすい選択。
無理して似合うふりをする場所より、素のままで歩ける場所。
痛みを我慢して向かう未来より、少し地味でも、自分の歩幅で進める未来。
梅雨前の下駄箱掃除は、ただの湿気対策ではありませんでした。
それは、私が私に戻るための、小さな儀式でした。
今日、下駄箱を開けて少しだけにおいが気になった人は、もしかしたら生活が乱れているのではなく、心が「そろそろ見直そう」と教えてくれているのかもしれません。
湿気は悪者みたいに思われがちですが、本当は隠れていたものを知らせてくれるサインでもあります。
そして、もし痛い靴を手放せたなら。
次に履く靴はきっと、今のあなたを、もう少しやさしい場所へ連れて行ってくれるはずです。
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